止まない雨は無いより先にその傘をくれよ

悪い精神状態というのは凶悪でそれ自体が周囲に悪い影響を伝染させていくのです。なので病んでしまったら誰も頼れなくて詰み!みたいな状況って結構あります。あくまで私の話ですから別にそんなことはないと思う方もいると思います。その方はその頼れる人間関係を自分の命より大切にした方がいいと思います。
僕の経験上誰かを頼るのって最初は別に問題ないんです。持ちつ持たれつ友情パワーってやつで乗り越えられるんですけど、そのうち頼る側は相手のキャパを考えられなくなっていくし頼られる側はうんざりしていくんですよ。それでもう二度と話すことはなくなります。
じゃあ自分の状況をよくわかってくれている側の人を頼ればいいじゃないかってなるんです。でもそもそも自分で自分の面倒を見ることができないから誰かを頼っているのに、自分で自分の面倒を見られない側の人間に自分の面倒を見てもらおうとするって正気じゃなくないですか?はい正気じゃないです。

上記以外の経験をしたことがない私にとって辛く苦しい時に誰かを頼るのって互いにマイナスしかないじゃん!って感じるんですよね。私は薬飲んで大人しく寝てればいいし何も知らない人は知らないままハッピーで別に皆で不幸を分担する必要ってないんですよ。自分の自己満足以上に無償で誰かの助けになろうとか考えて行動すればするだけ損だよねって話です。だから自分の惨めさをアピールして誰かの善意を引き出そうとする行為もまた同時にやめたほうがいいですよね。
だから誰かが弱者救済の話をしてるとびくびくしちゃうんですよね。大きな石をひっくり返してたくさんの節足動物を観察した後何事も無かったかのように元に戻すあの子供の頃の恣意的な行為に似たものを感じるんですよ。
世界のみんなで、国のみんなで、地域のみんなで、クラスのみんなで、家族のみんなで、自分たちで。
でも結局全ては一人ひとりの人間がやることなんですよね。それは一体誰なんでしょう。夏祭りで私が掬ってきた金魚の世話をしていたのは父親でした。それなら元々金魚すくいなんてするべきじゃないなんて今の私は十分わかります。

にも拘わらずこんな文章を書いている時点でこれは自分に対する相当な皮肉ですよね。最後にこの一文を添えて自分を慰めているのが殊更に。

何れにしても風は吹く

よく病院の先生に「そのまま人生について考え続けて(超意訳)」って言われます。精神が逝っていた時はこう言われると結構イライラしてました。これ以上に俺を苦しませてどうなるんだよって思ってました。でも意外と時間が経ってみると(少し不本意ながら)割とどうにかなっています。病院の先生ってすごいですよね。それでも問題は山積みですが。

人生辛いことから逃げてもいいとか、困難は乗り越えなくてもいいとか、そういう言葉って正しいんでしょうか。それで幸せになれるんでしょうか。人生は辛いことから逃げてもそこに幸せがあるわけじゃなくて"辛いことがない"だけなんですよね。そして"辛いことがないことはつまり幸せ"じゃないんですよ。辛いことの分だけ虚無になるだけ。
困難は乗り越えなくてもいいは多少は理解できるかもしれません。でもこの"乗り越えなくてもいい"の部分のニュアンスが結構大事じゃないかなと思います。例えばこの"乗り越えなくてもいい"というのが、今は妥協して回り道をするけれどもその困難から目を逸らすわけではない。みたいなポジティブな意味合いなら全然いいと思うんですけど、乗り越えることを諦めてただそこで立ち止まってその問題を眺めてるだけでいいみたいなそういう無責任な意味合いなら全然だめでしょって思うわけです。
巨人の肩の上に立つっていい言葉ですよね。自分が直面した問題に対して真摯に向き合っていればいずれ誰かが乗り越えてくれるかもしれません。人類の大義かもしれません。大げさ過ぎますか。

つまり先生が伝えたかったのは人生は立ち止まってはいけないということだったのかなと思うのです。なんで崖なんか登ってるんだろうという疑問にも多分これで答えられます。人生進み続けるしかないという残酷すぎる事実を極限までオブラート包んで伝えようとすると「そのまま悩み続けてください」になるんでしょうね。
なので最近は多分人生で一番大事なことって未来に目を向けることなんじゃないかなとか考えたりします。過去の幸せな記憶にばかり目を向けたりこれから起こるであろう辛く苦しい困難を想像し目を逸らし立ち止まりたい気持ちを抑え、勝手に進み続ける人生を共に等速で前を向きながら進むという意思こそが最も大事なのかもしれません。その意思こそまさに勇気であり、だから大抵人は勇気を尊ぶのかもしれません。

お人好しはいないし無知はそのうち気付く

先日の通院の際の内容を書いた文章に対して感想を貰ったのでその内容について少し考えてみます。

まずは"友人の意味が重くないか"という指摘です。
これは多分ニュアンス的には友達ってもっと気楽なものじゃないかって指摘だと思います。どうなんでしょう。個人的には多分誰も得しない結果になる予感がします。自分で言うのもあれですが私がなるべく人を頼らないのって自分の為でもあるし他人の為でもあります。それが仲の良い人なら尚更です。自分の中にある病んだ精神を他人に共有することでそれが他人に伝染したり、私への愛想を尽かされたり、私自身の強迫行為に巻き込んでしまうのは別に誰も幸せにはしないのです。それに発展することはなくとも壊れることのないこの絶妙バランスをわざわざ崩しに行くほどの体力がもう今の私には無いのです。

そしてもう一つは"崖の上に登る必要は必ずしもあるわけではない"という指摘。
これに関してはそうかもしれないね、って思わなくもないです。そもそもなんで崖なんか登ってるんですかね。多分崖の下にある幸せの形があまりにも悲しいものだったからなのかもしれません。人生に打ちのめされて自分が幸せになることや誰かを幸せにすることを諦めてそれでも生きてゆくことに直向きで前向きで誰かの幸せに敬虔な人が持つ希望が本当に悲しかったからなんだと思います。当然私も人間なので悲しいものを見ているのは辛いです。そこから目を背ける為に崖を登っているのかもしれませんし、或いは崖の下で出会った人達の希望になりたいと思って登っているのかもしれません。それかなんとなく登り始めてなんとなく"普通の人"に近づいてきて今更崖の下に戻ることに負い目を感じているのかもしれません。今わかることは崖の下にいた頃よりは今は幸せであるということです。あくまで相対的な話ですが。

執着が自分を苦しめる

先日精神科に行った時自分の現在考えていることを適当に話していたら先生に「それを文章に書いてみたら役に立つんじゃないか(意訳)」と言われたので先日話した内容を忘れないうちに書いておきたいと思います。

 

考えていたことの主題としてはどうやって理解者となる友人を作るかについて。
14歳くらいからもう7年弱引きこもりをして周りの人間関係を消費するような生き方をしてきた私にとって友達とか恋人とか(できたことないけど)ってどうやって作られていたのかを忘れてしまったのです。別にディープな友人関係とかなくても生きていけるタイプの人も世の中にはいますが私はそういうタイプではないのでこれは重大なことです。

それじゃあ問題を分析していきましょう。友人がいないとどんな問題があるのか。私は友人に何を求めているのか。それを自覚するためには私はどんな時友人を持つ人々に対して憧憬を抱くのかを思い出してみればわかります。それは私以外の誰かが心を病んだ時その人の周りに寄り添う人を観測したときです。「あぁなんて羨ましいんだろう私はこんなにも孤独なのに!」と私は感じるわけです。私は私が心を病んでも誰にも話すことはありません。まぁ多少希釈した感情をTwitterで吐露する程度です。というかそれも結構憚られます。どうして?


次の問題です。なんで私は心にあるその苦しい感情を誰にも話さないの?これは多分今までの経験上自分の持つ具体的な人生の障害を誰かに話したことによって良い結果を生んだことがないどころか悪い結果しか齎されてこなかったからでしょう。健康で文化的な人生を謳歌している割に別に余裕があるわけではない大多数の人間にとって誰かの重くて暗くて苦しい話なんて見たくもないし聞きたくもないでしょう。それに精神の障害は一目でわかるものでもないですし理解するのも一苦労な人もいると思います。しかも病んだ精神というものは伝染していきます。誰かの心の闇はそばにいる人の心にも影響を与え最悪の場合そばにいる人も心を病んでしまうかもしれません。そんなリスクある行為を積極的にしてくれる健康な人はよほどのお人好しか何も知らないだけです。私も自分がもっと利己的ならそんなこと構わず色んな人に強引に近づいて助けを求めていたでしょうが残念なことに私はそんなに利己的じゃなかったんです。
でも世の中人間が沢山いますから助けてあげたい言ってくれる人はいます。その人たちはお人好しで何も知らないんでしょうか?いいえその人たちは確かにお人好しですがちゃんと知っています。理解していてその上で優しいから手を差し伸べてくれるのです。つまり私と同じ側の人たちということです。じゃあその人達で協力して助け合っていけば理解者たる友人を得るという目標を達成できると思うでしょう。でもよく考えればそれは何の解決にもならないのです。自分一人助けられない人間が誰かを助けようだなんて烏滸がましいことだと思いませんか?
例えば私が今まさに崖から落ちそうで誰かに助けを求めているとしましょう。
崖の上の人々は私を助けることを躊躇います。なぜなら一緒に落ちてしまうかもしれないから。
下の人たちも何もできません。なぜなら私に手が届いても何もできませんから。もし何かできるほどの力があるのならとっくに下の人々は協力して崖の上に昇っているでしょう。

私が診断を受けている病気は強迫性障害だけですが、かつては(今でも少し)鬱病の診断がはやく欲しいと願っていた時期がありました。自らの怠惰や自らの醜態が全て病気の所為だと認めてくれれば許されるような気がしていたのです。そういう意味で私は当時自分を障害者になり切れない人間と形容していました。今はどうでしょう。崖の下で色々な人に出会い、別れ、今は崖を登っています。それがきっと自分にとって良い選択だと考えている訳でもなくただ崖を登っています。そして段々と崖の上に近づいてきて気が付きます。それは自分が当たり前のように持っている希死念慮のような感情を崖の上の人は当たり前に持っていないのだと。この思春期を含む7年弱で私の精神は歪に成長し、今の自分は健常者になり切れない人間になってしまいました。
この感性のずれの自覚が私が心を病んでもその胸中を誰かに話すことのない理由なのです。こうして私は現在の微妙な人間関係を維持するために口を噤みその怒りと悲しみがどうでもよくなるのを待ちながらどうしたものかと困っているのです。